「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指します・・・・・・。 |
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1 自然界の”山”・”川”・”湖”の静かな変化・移り替わり | ||||
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川 と 山雨が降ると
”自然”の悠久な流れ・動きについて考えた。・・で、 下の文が符合して納得できた。 |
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村・組織・国 六地蔵、 過疎化する:村 空洞化する:国 形骸化する:組織 今は、 それを見つめているか。 |
「禅と陽明学」 安岡正篤 より、栄枯盛衰の歴史観 を学んだ。 人間一人ひとりの心の中にも、いろんな起伏がある。 歴史を眺めると、動きとうねりの根底に、 以下のごとき”因”を宿している。 改革を希求する我が国は、 一体、どう方向を見付けるであろうか?!
「国は悪によって滅びるのではなく、 その愚によって滅びる」 ・・・・ 土光登美(土光敏夫の母) 「愚」とは、現状に甘んじた思考停止、 行動停止のことである。 ・・・ 井原甲二 ****************************************************** |
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『愚』について 付記 ☆ 「法句経」 ダンマ・パダ 一日一話 A・スマナサーラ より ☆ 「16 今なすべきことに意識を向ける」
たとえば、話を聞くことであったり、皿を洗うことであったり、ものを片づけることであったりするわけです。 正しく生きるとは、今なすべきことをよく知り、それをきちんとやるということです。今、この瞬間になすべきいことだけを、きちんとやればいいのです。では、そのあとはどうすればいいのかといえば、また、そのときそのときになすべきことを、ただやるだけでいいのです。つねに今なすべきことに、意識を向けてゆくのです。そうすればとてもシンプルな生き方になります。 ところが、わたしたちの生き方がなかなかシンプルにならないのは、過去を振り返り、先のことを心配したりして、「今、ここ」にいることが難しいからです。そのためには、ものごとを漠然と見てはいけません。具体的にやるべきことが見えないと無用な不安が生じてくるからです。(中略) いつも「ああ忙しい、忙しい」と嘆いていては、追い立てられているように日々を送っている人がいます。 ところが、その人の生活をよく観察してみますと、本当に忙しいのではありません。忙しくて時間がないのではなく、雑事に追われて混乱していて、心が落ち着かないだけのことなのです。だから、忙しいと感じてしまうのです。 仕事や家事を「巧みにこなす」ことができれば、「忙しい、忙しい」と焦ることはないでしょう。(中略) では、「巧みな人」になるには、どうしたらよいのでしょうか。 お釈迦様は、「今、行っていることについて、正しく気づくことだ」と説いています。 (略) |
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注: 少数派意見を排除したりして耳を貸さない風潮がある内は、まだ、不安、動揺、混沌、動乱は、起きないであろう。 しかし、従来の体制やリーダーに対して、不満や批判が爆発・噴出してくると、体制変換の動きが起きてくる。 ”明治維新”前後の動きを連想する。 企業や政治の世界にもある。自分の心の中にもある。五つの過程。 |
B 創業垂統(そうぎょうすいとう): |
乱を撥(おさ)めてできあがった統一、秩序、組織というものを後へ伝える。 新しい業を創(はじ)めて統を垂れる。後へすじを残す。 「創業垂統継ぐべきをなす」と孟子も言っている。つまり撥乱反正をやって、乱を撥(おさ)めて出来上がった統一、秩序、組織というものを後へ伝える、統を垂れる・・・創業垂統(そうぎょうすいとう)に成らなければならない。 自然は永遠ですから、また道というものは無窮なのだから、人間、人格が公平無私、大公無私、あるいは別の言葉で言うならば寛仁大度、呂新吾でいうと深沈重厚というように、撥乱反正から創業垂統で後を残さなければいけない。 一時で終わってはいけない。その意味においては徳川家康などというのは確かに偉いですね。三世紀にわたる創業垂統をよくし得た。(略) |
注:『よらしむべし 知らしむべからず』と、思考停止、行動停止の愚を諫めることができるであろうか? 単なる”少数派”に終わらないで、・・・・・・。 ちゃんとした、信頼して従うことの出来るリーダーが、やはり社会には必要なのである。 政治家とは、『タレント』ではない。人気稼業ではないのである。 政(まつりごと)の尊厳性がすっかり何処かに失せてしまったか?! <☆ ここで『よらすむべし・・』は、俗な解釈で引用した。本来は違うが・・・。> |
C 継体守文(けいたいしゅぶん): |
この文というのは法律とか制度とかいう意味ですね。 創業者がつくった組織、文化、法制、そう言うものを守っていく、継体守文。 あるいはこれを「保業守成」・・・業を保ち守り成す。 創業の人物は磊落豪雄(らいらくごうゆう)、英邁で道に近い、自由自在である。創造的である。 それが保業守成になるとだいぶ道が器になる。手堅くなってくる。間違いがなくなってくる。 継体守文、つまり保守的になって、なおかつ道に近く、創造的で、自由で、型にはまらない、生命力が旺盛であるということは難しいのです。 できあがった組織を受け取ってそこに出ているいろいろの法令・制度そのものを踏襲してゆくということになると、どうしても型にはまる。つまり融通が利かなくなる。 つぶしが利かなくなる。これが保守の弱みです。 (略) ちっとも進歩しない。だんだん魅力が無くなる。 それは弊害を除去するのにラジカルどころではない。まったくメスが立たない。 そこに非情にデリケートな意味がある。 しかし、ここまでは器的であってもまだ手堅い。 間違いのないところがあるが、人間の生命というものは型にはまってくると、必ず衰えてくる。 |
注:諸事が「前回のとおり」「昨年のごとく」進められる。従って、初心は忘れ去られて、新しい工夫がない。 創業の頃の精神はすっかりと忘れられて、ついには形骸化する。 万事が「・・べからず。」で、規則ばかりが多くなり、堅苦しく活気が消えてゆく。 『前年度のとおりです!』と、したり顔の報告で済んでしまう。 逆に、前回と異なる規格には抵抗や反抗をしたがる風潮が生まれたりもする。形式ばかりが重んじられて、物事の本来の目標は霞んで住まう。”こころ”が籠もらない企画と運営となり果てる。 ”Policy・ポリシー”などは、陰もない。 『キマリですから・・・・!そういう規則なので!』と、事務的な業務で、事は進められていく。 |
D 因循姑息(いんじゅんこそく): |
第三期にはいると必ず「因循姑息」というものになる。 なんでも事なかれ主義で「まあまあしばらく」ということになる。 なんでも危なっかしいことはやらない。「まあまあ」で、何もせぬ。 「悪をなさず、善またなさず」で、悪いことも良いこともしない。因循姑息ということになる。 ところが個人の生命より以上に、もっと大いなる生命の流れ、時代、民族、社会というものは、いわゆる創造、変化、造化で駸々(しんしん)として止まらない。日進月歩である。 一方が足踏みしているとその結果不安動揺ということが起こってくる。 これを因循姑息では乗り越えられない。 そうすると、この不安動揺がだんだん混乱頽廃というものになってくる。 そこで革命というものの要求が起こってくる。 そうしてこれが、撥乱反正へ反ればいいんだけれども、天運循環というやつで、反正に反らないと、ますます混乱が激しくなって破滅、そのまま亡びる。その次には滅亡ということが来るわけです。 幸い運があれば、ここへ返ってくる。 その返るのにえらい外科的手術を要するものが革命である。 それほどの犠牲を払わずに、痛い目を見ずに割合スムーズにゆき、内科的にいけば、これは維新というものである。 日本は外国に比べると、国体は革命国体ではなくて維新国体である。明治がいい例である。 (略) 来るべき時勢が維新でゆくか、革命になるかというところが混沌として見分けがつかないというのが現在の状態、革命へゆくほど道が衰え、器になってくる。 反対に、人間が道に近づけば、あるいは道によればよるほど維新へくるわけです。 |
注: 「事なかれ主義」とは、良心が失せた集団のことである。 『まぁ、止しときましょう。結果を上司から攻められても、利にかなわない?!』。 『面倒なことはしなくとも、ここは大樹の陰に隠れて、自己の存在だけを適当にアピールしておこう。』・『遠い将来の組織や社会がどうなろうと、当面、自分に利があるか無いか???』など、内心自問自答し始める。 こうなると、もう、しばらくこんな状況から脱出は不可能となる。 更に、上司には、部下の声がまったく聞こえなくなる。声はあっても本音は別にあるからである。 ・・・・。 末期的な症状は、『内部告発の勧め』等という、奇妙で無責任な現象を、真顔で待つことになる。 以下は、キーワード「因循姑息」に関する評論である。 |
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注:因循姑息(いんじゅんこそく)に立ち向かうのは誰か?与野党の別なく吹き出す金銭に纏(まつわ)わる「不正疑惑」の数々。 |
E 撥乱独裁(はつらんどくさい): 注:”器” 朱子学や陽明学では、現実の物象を器といい、その根原を道という。 「漢字源」より |
革命へゆくほど道が衰え、器(注)になってくる。 反対に人間が道に近づけば、あるいは道によればよるほど維新に近づく。 これが道を失うと、撥乱独裁になる。これは驕慢放奢(きょうまんほうしゃ)になる。人間の悪の面が出てくる。必ず上に立つ者に阿諛(あゆ)迎合が始まる。(略) 秦の宦官・趙高(ちょうこう ? 〜 前207)は、秦の始皇帝が亡くなったら二世皇帝(前229〜前207 趙高に殺される。)にたいしてどのくらい家来どもが忠誠心を持っているかということを調べようと思って、ちょうど秀忠が亡くなった時に栄光を擁して、阿部忠秋や土井利勝がやったと同じようなことを少しばかげてやった。 人間の知恵というものはあまり変わらない。 群臣を集めて、鹿を献上したものがあるからみなに見せると言って馬を見せた。 そうしたら「これは馬ではないか」といった者があった。 「鹿である」といったら、「さようでございます」といって皆おじぎをした。 それで「馬鹿」という言葉があると伝えているんだが、これは極端な例だけれども、そういうふうになるのですね。 幕末の落首にもある。「世の中は左様でござる、ごもっとも、何とござるかしかと存ぜず。」というようになる。 そうなると、我こそは気に入られようと自分こそその恩寵(おんちょう)に与ろうと嫉視排擠(しっしはいせい)というものがおこる。 お互いに嫉視排擠する。 |
注:さぁ。ここまで来れば・・・・。もう、改革・刷新(さっしん)が急がれよう。 このように腐乱した世界で、企業や組織の一部を任されたら、”出世”の名誉もヘッタクレも有ったものではない。 ”義”のある者に、出番はないのだ。 彼は、静かに黙して、密かに一人己の人生を意義在るものにする努力しか残されてはいない。 自己の研鑽に励むしかない。 ところで、「自然・社会」の流れは悠然として静かに継続して、この大きなうねりの営みの中にいる。 ”いのち”と大いなる意志が繋がって、悠久なうねりとなって働いている。 ・・ 苦縁讃 |
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